教養とは
何を学び、なぜ学ぶのか(指導方法)
よく子どもたちは「なんでこんなことを勉強するんだ」、「絶対将来つかわない」などといいます。私もよく言っていたものです。
その時、学校や塾の先生はこう返します。
「学歴や学校での成績は、努力の指標なんだ。企業が学生たちの成績を見て、その子がどれだけ『努力』ができるかを見定めるんだ」と。
なるほど確かに納得してしまいそうです。勉強がそれなりにできて、ある程度将来について考えを巡らせられる子であれば、その言葉に乗せられて一生懸命やるかもしれません。また、確かに企業の視点から見ても、学歴のある人というのは、自分たちの会社に利益をもたらしてくれるのではないかという期待があるでしょう。「大卒以上」という募集条件を敷いたり、学歴による「脚切り」というものが存在するということが、そのことをよく物語っています。
しかし、その返答は一見正しいようで、的外れ、とまでは言いませんが、的を射ていないものであるように思われます。
もし仮に学校の勉強が単なる「努力の指標」であれば、私たちが学んできた国語・算数・理科・社会・英語という教科である必要はないのです。極端な話、「どれだけ綺麗に泥団子を作れるか」でいいわけです。なぜなら努力が結果に現れることに違いはないですから。
でも実際は違います。
泥団子を作るでもなければマッチ棒を並べるでもない。私たちが一生懸命勉強したそれは、小学校から大学まで、その先も延々と続く学問体系として存在し、「教養」という名のもとに世界に認められ、当然学ばれて然るべしという立ち位置を誇示しているわけです。
何を学びなぜ学ぶのか、親であれ教師であれ、指導者はそれをよく理解し、子どもたちを正しい方向へ導いていく義務があります。
私たちが小学生のころから大学生の頃まで学んできた教養というのは、社会におけるすべての事象に対して人が持つべき知識や知恵の素地であると言うことが出来ます。具体的な例を言うと、数学の三角形の合同の証明は、ある目的に沿って合理的な思考手順を踏む訓練であるし、科学の実験は、推測されたものが果たして本当になり得るかという、認識と実態との正誤の関連、また確認する手段の理解となるわけです。私たちは大学生になっても、基礎的な教養を学びます。それはなぜかというと、もし大学で、実社会ですぐさま通用する事柄をのみ勉強しても、変化していく世の中においてはそういった専門的な知識というのはすぐさま廃れてしまうからです。だからこそ大学でも、リベラルアーツという考えが生まれ、専門的な分野に固執せず、様々な学問領域を修めさせることで、物事に対して多角的な視野をもたせたり、創造的な思考、表現を培うようにさせているのです。
世の中には社会単位であれ個人単位であれ、既存の知識や思考手順ではどうしても解決出来ない問題というのが起きてしまいます。それに対抗するには様々な視点から、その物事の本質を見定め、解決手段を探り実行する必要があります。それが感覚的であったり、場当たり的なものであると、それがまた別の問題を生じさせ、そこに時間も労力も費やさなければならなくなるかもしれません。本来避けられた事態に無駄な労力を費やせば、ただただ、疲労感だけが残ってしまうし、それが最終的に、根本解決につながっていないこともあり得るわけです。
子どもたちはこれから社会に出て、自分だけではなく、他の人とも協調しながら、多くの困難を乗り越えなければなりません。そのために私たち教育者は、なぜ教科教育があるか、どこを目的地とするか、それらを今一度、再認識する必要があるのではないかと思います。
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